不倫や浮気をしたい気持ちを学問的に正当化

社会学者・宮台真司さんのあまりにも素晴らしい映画批評。その映画は過激な性描写で話題を集めた『LOVE【3D】』。

難解ではあるけれど、素晴らしい映画を観るより小説を読むより深いトランス状態に陥らせてくれるほどの密度の濃い内容。

『我々が絶えず婚外の相手に欲情する事実』を、世間体のような見えないプレッシャーを受けて無意識に否定するという姿勢で生きていくというのはやっぱり嫌だと改めて思った。

不倫や浮気をしたい気持ちを学問的に正当化してもらいたいという単純な事ではなく、このような話に興味を持つ女性に出会い、そして色々と話したいな、と思った。

批評の内容を簡単に箇条書きしてみた。

不倫や浮気をしたい気持ちを肯定する

不倫や浮気をしたい気持ちというのは、何も不道徳なことではない?

セックスには<愛のセックス><祭りのセックス><ただのセックス>がある。

<愛のセックス>は歴史が浅く、12世紀南欧で吟遊詩人の戯れとして始まった、成就(<交換>)を求めない既婚婦人の崇高化(<贈与>)が、16世紀には宮廷に持ち込まれ、既婚者同士の婚外関係に移行する。

19世紀半ばに、印刷術の発達て恋愛小説が普及すると、病や死ならぬ、結婚の決意を以て「真の心」の証だと理解する、その意味で謂わば結婚によって「真の心」を買うが如き、<交換>としての「恋愛」が、西洋世界で一挙に人口に膾炙する。今は崩壊しかかっている。

モノガミー(1対1)は、1万年前からの定住化(農耕牧畜化=動植物の栽培飼育)に伴う、ストックの成立と分配を制御する必要から、正則的性愛関係(婚姻)をそうでないものから区別するべく始まったもの。つまりモノガミーは婚姻に関するもので、元々は恋愛とは無関係だった。

情熱は「制御不能な感情」のこと。恋愛=情熱愛は、制度でしかない結婚の外側にあると考えられる他なく、従って12世紀から19世紀半ばまで一貫して、恋愛は既婚者同士の婚外関係に於いて生じるものとされて来た。

<情熱と制度は両立しない><恋愛と社会は両立しない>とする観念が維持されて来た。

定住化に伴うストックの保全と配分の便宜から、婚姻(正則的性愛関係)というモノガミーが始まる。

定住化に伴う婚姻のモノガミーが、所詮は仮象つまり<なりすまし>である事実を再確認すべく、祝祭時に敢えてタブー侵犯─公然の乱交など─がなされた。

性愛局面に限らず、男女の入れ替え、大人子供の入れ替え、強者弱者の入れ替え、タブー・ノンタブーの入れ替えにより、定住化に伴う、ストックを前提とした<交換>的秩序─モノガミーは一例─の外側に<贈与>の過剰が満ちる事実をリマインドさせるものが祝祭。

性愛の衝動は多少なりともアモルファス(無定型)で、その営みには反秩序的な契機が元々孕まれる。

定住社会を支える法に従う際、ヒトは必ず裏で、法破り(タブー侵犯)に向けた否定のエネルギーを蓄積し、それが超自我(裏の法)を構成する。

フロイトが言うように、性愛の欲動は元来、多形倒錯です。消しゴムに性欲を感じても不思議じゃない。これを言語プログラムを用いて外傷的に抑圧することで、遅くとも3歳迄の間に、多くのヒトが異性愛の性欲へと「整形」される。

<愛のセックス>は、婚姻モノガミーに優先権が与えられます。子供の帰属が、婚姻モノガミーに優先権が与えられているのと同型。でも、婚姻モノガミーは元来、専ら子供の帰属に関する制度であり、婚姻した夫婦が、子供と同じく愛も排他的に所有することはなかった。

当初は婚姻者の婚外関係にだけ生じた非モノガミー的な情熱愛が、やがて性交を伴って<愛のセックス>を誕生させた後、それでも暫くは愛はモノガミーとは無関係だったのが、結婚と出産に至る<愛のセックス>が最高ランクとなり、恋愛モノガミーが普及することになる。

不倫や浮気をしたい気持ちを持つことを恥じる必要はない

不倫や浮気をしたい気持ちを抱いていることを、恥じてしまう事って多いと思います。

多くの人がそのような気持ちを抱くように仕向けないと、安定的な社会を営めないので、そのような規範を社会に広めていなければならないということなんでしょうね。

でもそれって、人間の自然な感情からすれば、感情の抑制でしかないということが、この宮台さんの文章を読めばよく分かりますね。

何も、不倫や浮気をしたい気持ちを恥じることはない、ただ全てそれを解放してしまうとパートナーとの関係が成り立ちにくいので、そこはバランスを取る必要もある、ということなんじゃないでしょうか。

そんな事を考えさせられました。

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